top of page

茶道 織部流扶桑派

沿革

​織部流扶桑派は、見中斎米山(1878-1966)が古田織部公の闊達でゆかしい人柄に触れ織部公のお茶の伝統をたいせつにし、今一度世に出したいと願い修行研究をかさね、自分の茶をうちたてたところよりひらかれました。

米山は明治11年(1878年)4月15日、大阪府大山崎、龍光山瑞光寺住職の中村宗僊の三男として生まれ、名を米三郎と申します。

米山の父宗僊は、表千家十一世碌々斎宗左の片腕として活躍いたしておりました。

米山は幼いころより父に茶の手ほどきをうけ、8歳のおり祇園祭長刀鉾の稚児に選ばれ、八坂神社においてお献茶をご奉仕いたしました。

若くして建仁寺派管長竹田黙雷禅師に禅の心を学び、古田織部公の墓所であります興聖寺(おりべ寺)の日種譲山禅師と出会います。

そして当時荒廃していた興聖寺を日種譲山禅師とともに再建し、織部公とは親戚関係であります薮内宗匠と相談して茶席も建て、織部公御像を安置いたしました。

この時代の米山の足跡として興聖寺の『下り蹲踞』を作ったり、現在清水寺、建仁寺で行われている『四ッ頭の茶礼』などを始めております。

このような経歴の中、清水寺大西良慶和上に親近し、その徳高い薫陶の下、格別の指南をうけて立てた茶の道が織部流扶桑派であります。

米山は南禅寺天授庵において家元披露を行い平安神宮、上賀茂神社、菅大臣神社のお献茶を御奉仕いたしました。

昭和41年(1966)2月28日、89歳にて他界するまで晩年を茶一筋にすごしました。

奇しくも2月28日は、旧暦の千利休自刃の日にあたり、米山の茶人としての因縁が思われるところであります。

見中斎米山は自ら学んだ禅の心、自然人の茶人として茶の心を大切にし、趣向をよくし、飾りおごらぬ、心からのもてなしをする茶を指導いたしました。

『南方録』に「家には漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて足ることなり。是仏の教え、茶の湯の本意なり」とありますが、米山を知る建仁寺両足院伊藤東慎老師は、この言葉どうりの生き方をされた方と申されております。

古田織部

古田織部公は戦国時代~江戸時代初期にかけての武将・大名・茶人・芸術家であり、利休七哲のひとり

千利休の後継者として豊臣秀吉・徳川家康の茶頭、徳川秀忠の茶の湯指南役であった

茶の湯文化において織部焼をはじめ茶器・建築・作庭など多くの面で「織部好み」と呼ばれる新しいジャンルを確立させ茶道織部流の祖となった

しかし大阪夏の陣で徳川方として武功をあげたが、徳川方に内通していると疑いをかけられ切腹を命じられる

この時一族はお家断絶となり、織部流は途絶えてしまった

特徴

棗・茶碗・茶筅など、お道具は直置きせず

お台に乗せ扱います

茶碗を清める際に使う茶巾も一碗ごとに

交換するため 茶巾落としと呼ばれる独自の

道具を使用します

1681710582857.jpg
20230521_174445_edited.jpg

    

  十二の心得

 一、大名茶道である

 二、真行草の行の作法を常とする

 三、創意工夫を尊ぶ

 四、斬新さを尊び独創性を諸作に及ぼす

 五、茶道とは遊びにあらず芸術にあらず

 六、一味清浄・祥喜法悦の境地である

 七、茶道は心の修養を専一にすべし

 八、常に心を丹田におちつけるべし

 九、立居振舞をすみやかに

 十、真心をもってほがらかに茶をたてるべし

十一、すべての物は先人の偉業の賜なる

十二、よく考え感謝の心を以て粗雑にせず

   大切にすべきものなり

 

  一念にして次々転々と油断なく

  敏速に閑急をよく心得、動作すべし

​              見中斎 米山

bottom of page